日本の災害史
出典 災害写真データベース
日本の過去の大災害を知り、今後起きる災害にその教訓を活かすことができるよう、まずは過去を知ってください。
地震
関東大震災
1923年(大正12年)9月1日 11:58 南関東を中心に発生した関東地震によって大きな被害をもたらした地震災害。
規模 マグニチュード7.9
最大震度 6
津波 相模湾沿岸部と房総半島沿岸部で高さ10メートル以上の津波が記録された。
死者・行方不明者 10万5千人
火災による犠牲者が全体の犠牲者10万5千人のうち9万1千人を占めた。
地震発生がお昼ごはんの時間と重なったことで100件を超える火災が同時多発的に発生した。
陸軍被服廠跡地(現在、東京都慰霊堂の敷地)で火災旋風が発生し多くの犠牲者を出したことは有名な話であるが、同じくらいの広さであり、周辺がすべて延焼地域となった点や、数万人にも及ぶ避難民が殺到する等、共通する条件が多かった横浜公園は火災に巻き込まれず多くの命を救った場所である。
「防災の日」が9月1日なのは関東大震災の発災日であることと、台風が多いとされる二百十日にあたり、「災害への備えを怠らないように」との戒めが込められている。
東日本大震災
2011年(平成23年)3月11日 14:46 東北地方太平洋沖地震による災害またこれに伴う福島第一原子力発電所事故による災害。
規模 マグニチュード9.0
最大震度 7
津波 最も津波が高くまで来ていたのが、岩手県宮古市で海岸から約500メートル離れた斜面の樹木に、津波で流された枝等が引っかかっていた高さが海面から40.5メートルに達していた。およそ10階建てのビルの高さに相当する。
死者・行方不明者 1万8429人(令和元年7月9日時点)
筆者が阪神淡路大震災に続いて被災した大災害。
地震の揺れによる被害はもちろんだが直後の巨大津波、その津波による原発事故と悪いことが重なり未曾有の大災害となった。
阪神淡路大震災
1995年(平成8年)1月17日 5:46 兵庫県南部地震により近畿圏の広域が被害をうけた大災害。
規模 マグニチュード7.3
最大震度 7
津波 気象庁発表では「無し」とされるが、津波が観測されていたとする説もある。
死者・行方不明者 6437人
前述の通り筆者は大阪市内で被災した。初めて体験した大きな揺れで、地震が怖いと思ったのはこの時が初めてだった。
関東大震災では火災、東日本大震災では津波の被害が甚大だったが、阪神淡路大震災での犠牲者は主に圧死で6千人を超える死者を出した。
多くの木造住宅が倒壊し、家屋の下敷きになり即死したとみられる。特に1階で就寝中に圧死した人が多かった。
台風
伊勢湾台風
1959年(昭和34年)9月26日
最低気圧 895hp
最大風速 75 m/s
死者・行方不明者 5098人
和歌山県潮岬(台風の時期になるとよくテレビ等で耳にする地名ですね)に上陸し、紀伊半島から東海地方を中心に全国規模に被害が及んだ超大型の台風。
伊勢湾岸の愛知県・三重県の被害が甚大で気象庁により伊勢湾台風と名付けられた。
この台風は進路の予測が正確に行われており確実に上陸するとされ、災害対策を講じる余裕が十分あったにもかかわらず甚大な被害が発生した。
おもな被害は高潮による水害で、低気圧による海面の吸い上げと強風による吹き寄せによって満潮時を外れていたにも関わらず名古屋港で平均海面上3.89mと事前予測の2mをはるかに超える観測史上最高位を記録した。
対して伊勢湾奥の海岸堤防は高さ3.38mしかなく決壊し被害が拡大した。
枕崎台風
1945年((昭和20年)9月17日
最低気圧 916.1hp
最大風速
死者・行方不明者 3756人
14時頃、鹿児島県枕崎町付近に上陸し日本列島を縦断した台風。
終戦直後の出来事で、情報が少なく防災も不十分だった為各地で被害が大きくなった。
原爆の惨禍に追い打ちをかける形となった広島県では死者・行方不明者合わせて2000人を超える甚大な被害となった。
~時は流れ2018年(平成30年)まだ記憶に新しい西日本豪雨が呉市を襲った。
住人の多くは街を流れる大屋川が氾濫するとは考えていなかったが、枕崎台風を経験した老齢の方は当時とほとんど変わらない大屋川の姿に「また起きるんじゃないか」と不安を覚えたが、周囲の反応を気にして被害や教訓を伝えることができなかった。
室戸台風
1934年(昭和9年)9月15日
最低気圧 911.6hp
最大風速 60m/s以上で測定不可
死者・行方不明者 3036人
5:00頃、室戸岬上陸時の中心気圧は911.6hpで、観測史上最も上陸時の中心気圧が低い台風。
室戸測候所では最大瞬間風速60m/sを観測したのを最後に観測機が故障し想定不能となった。
8:00頃、大阪と神戸の間に再上陸した。 満潮を過ぎていたものの潮位は高く、最大瞬間風速60m/sの強風にあおられ4メートルを超える高潮が発生した。
急激な水位の上昇で避難が間に合わず、大阪湾一帯での溺死者は1900名以上と推定される。
四天王寺では1812年(文化9年)に建造された五重塔と仁王門が全壊した。
火災
千日デパート火災
1972年(昭和47年)5月13日 22:30頃
場所 大阪南区(現中央区)千日前「千日デパート」
出火原因 タバコの不始末と推定
死者118名 負傷者81名
大阪ミナミの繁華街、千日デパートビルから出火したこの火災はおよそ9時間燃え続けた。
3階から出火した火災は2階から4階までを焼き、有毒ガスを含んだ煙は階段・空調ダクト等を這い上がりあっという間に7階で営業中のアルバイトサロン(現在のキャバクラのようなもの)に達した。
店にいた181人の客や従業員が火災発生を知らされず取り残された。
7階から生還したのは63名で、はしご車での救助者が53名その他の生還者は自力で脱出した。
この火災では防火管理体制に不備があり多くの犠牲者を生んだ。
歌舞伎町雑居ビル火災
2001年(平成13年)9月1日 午前1:00頃
場所 歌舞伎町 「明星56ビル」
出火原因 放火の可能性が高い
死者44名 負傷者3名
9月1日「防災の日」に起こった放火と思われる事件。
このビルは消防の検査で火災報知機の不備などの指摘を何度も受けていたという。
事件当時階段には看板等、避難の妨げとなるものが乱雑に置かれ、自動火災報知器に至っては誤作動が多いことを理由に電源が切られていた。
火元は3階の麻雀ゲーム店のエレベーター付近。3階と4階の防火扉が開いていた為この2フロアに火炎と煙が一気にまわり死者44名全員が急性一酸化炭素中毒死した。
2008年(平成20年)になってビルオーナーら被告人5名が有罪判決を受けている。
この火災の翌年、消防法が大幅に改善されビルオーナー等はより重大な責任を負うこととなり防火管理意識を高めるきっかけとなった。
ホテルニュージャパン
1982年(昭和57年)2月8日 午前3時24分
場所 東京都千代田区永田町 「ホテルニュージャパン」
出火原因 寝タバコ 死者33名 負傷者34名
筆者がまだチビッ子の頃の火災で、窓から噴き出す激しい炎・部屋から身を乗り出し救助を求める人の姿をテレビで見てすごく怖かったのを覚えています。
火元の9階と10階を中心に9時間にわたり燃え続けた。
このように激しく燃えたのには理由がある。
ホテルニュージャパンは度重なる消防署の改善命令を無視して、スプリンクラー等の設置を怠り、火災報知機や煙感知器、館内放送設備等も故障したまま放置されており、結果宿泊客は火災発生を外部から知らされることは一切なく被害を拡大させた。
利益を最優先に、安全性を軽視し防災施設の不備と法を無視した姿勢に大きな避難が寄せられた。
この火災におけるいくつもの違法営業により社長の横井秀樹被告は業務上過失致死傷罪で禁錮3年の実刑判決を受けた。
まとめ
恐ろしい記録をたどり、改めて災害大国日本という言葉を思い出しました。 このほかにもたくさんの災害を我々のご先祖様は経験してきました。
その教訓を忘れることなく今後起きる災害に必ず活かせるよう、また機会があれば このような紹介もさせていただきます。
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